自転車でのポタリング・写真散歩を中心に読書や部屋の片付けの様子などを書きます。
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郷土愛
広島では夕方近くになるとテレビ各局がローカルニュースを流し始めます。

広島近郊の報道ニュースを始め、最近出来た店や施設の情報、広島カープ、

そしてサンフレッチェの情報を些か過ぎるくらいの広島びいきで流します。

NHK広島、RCC中国放送、広島ホームテレビ、広島テレビ、テレビ新広島。

以上の5局が郷土愛の溢れた番組を制作してます。

たまに旅した時に宿泊先でテレビを観ることもあるのですが、他府県でも

こうしたローカル情報番組はあるようですが、広島ほど数多くのテレビ局が

放送しているようではないように思えます。

そうした放送は私が子供の頃、クラブ活動を終えて家に帰ってテレビのスイッチを入れると

郷土愛を心の奥底に根付かせてくれます。

さて、緑溢れて、どこまでも青い空のもと、今日は久しぶりにDSに跨り、

広島のテレビ局を回ってみるという、なんとも暇な事に興じてみようと

ポタリングを開始しました。

まずは・・・

20170424roa1.jpg

広島テレビ (日本テレビ系列)

次に・・・

20170424roa2.jpg

広島ホームテレビ (テレビ朝日系列)

そして・・・

20170424roa3.jpg

RCC中国放送  (TBS系列)

最後に・・・

20170424roa4.jpg

NHK広島放送

こうしてブログを書いていて気が付いてしまった・・・(つД`)ノ

あと一局、回っていない!!

テレビ新広島 (フジテレビ系列)  ごめんなさい!! ・゚・(つД`)・゚・

なんともゆる~い記事となってしまいました。

春の陽気ですっかり忘れてしまった・・・


Dst・・・36.78  Av・・・15.5  TREK8・5DS





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神話の舞台
前回の記事で取り上げた山口県下関市長府地区にある

忌宮神社(いみのみや)へ遠征してきました。

岡山旅から古代史に興味が湧き、一冊本を読み、さらに、

神話の舞台となった土地を訪れるという、つながったものになりました。

長府の観光センターでシラスを車からおろし、ポタリングをスタートします。




古代より山陽道の中継地として栄えたが、現在では国道2号や国道9号の通り道にあるなど、交通の要衝としての位置を占めている。
仲哀天皇の時代に『穴門豊浦宮 (あなとのとゆらのみや) 』が置かれたという伝説 (日本書紀記載) があり、忌宮神社 (長門国二宮) はその跡とされる。長門国 (穴門国) 設置にともなって国府および国分寺が置かれたが、やがて国府としての機能が低下するにともない、門前町・宿場町として位置付くことになった。奈良時代には鋳銭司が、鎌倉時代には長門探題が設置された。室町時代には長門守護の厚東氏 (厚東義武) が、戦国時代には山口に拠点を置いた守護大名・大内氏 (大内義長) が、それぞれ長府の地で滅亡した。江戸時代に入ってからは、長州藩の支藩・長府藩設置により長府毛利家が陣屋 (櫛崎城) を構え、その周辺に武家屋敷が広がることになった。幕末には、高杉晋作が長州藩内の佐幕打倒を図り功山寺で決起した。

以上はウィキ引用。

今回のポタリングでは江戸時代や明治維新ではなく、古代の長府の姿に想いを馳せてみよう!!

まずは・・・

忌宮神社へと向かいます。

20170420wlz1.jpg

忌宮神社は、第14代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下。
この地に皇居、豊浦宮を興して7年間政治を行われた旧址で、天皇が筑紫の香椎で崩御されたのち
御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに
応神天皇をお祀りして豊明宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際
忌宮に合祀して一殿となり、忌宮をもって総称するようになった。
忌とは斎と同義語で、特に清浄して神霊を奉斎する意味である
現在の社殿は明治10年の造営で、昭和56年に改修す。
古来、文武の神として歴朝の尊崇武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、
長門の国二ノ宮として広く親しまれている。  以上、由来の案内板より引用。

仲哀天皇が筑紫の香椎で崩御されたのち、神功皇后によって
ここ長府の小高い丘に仮埋葬されたのです。

神社をあとにして、その仮埋葬地へと行ってみることにしました。

その場所は、日頼寺の脇から入っていった所にあります。

20170420wlz2.jpg

入り口には立て看板があり、読むと宮内庁管理とあるではありませんか!!
やはり神話の領域とは言え天皇家の陵墓なのです。

ここから石段を登っていくと、陵墓の前まで行けるのですが、
恐れおおくて、この場所で止めておきました。

凄いですね!! 忌宮神社といい、仮埋葬の塚といい
2017年の現代に残っているのです。西暦193年の頃の話だから
1824年前ですよ!! 1824年前!
ロマンがありますね~

この2か所を見ることが目的だったので、あとは長府の街並みを
流しながら、ポタリングしました。

20170420wlz3.jpg









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消えた海洋王国
今月1冊目の本を読み終えました。

「消えた海洋王国・吉備物部一族の正体」 古代史謎解き紀行

関 裕二・著  新潮文庫

です。

先月岡山へ旅行に行って色々な所を見て、その歴史を

より深く知りたくなってこの本を手にしました。

瀬戸内と聞いて、皆様はどうようなイメージを持っているでしょうか?

穏やかな海。 たくさんの島々による多島美。 しまなみ海道。

しかし、瀬戸内の海は思いのほか潮流が激しいのです。

だから、その海を渡る為には、航海術を身につけた海人の助けがいったようです。

それは古代の昔も変わらないことでした。

古代の昔。そう、神話の領域。西日本には、北部九州、出雲、吉備、そして大和と

大きな勢力がありました。北部九州は朝鮮半島から稲作や鉄器が真っ先に

入って来た地域でした。それは出雲も同じでした。

その頃、畿内のヤマトの国はそれほど大きな勢力ではなかったと推測されています。

北部九州からヤマトへの物資の移動や人の往来には、

瀬戸内海はとても重要な地域でした。

その瀬戸内海の入り口であって、袋の口であった場所が、現在の関門海峡だったのです。

北部九州や出雲の勢力は、朝鮮半島から入って来た鉄をヤマトに流したくなかったから

関門海峡を押さえていたようです。ヤマトの勢力が大きくなるのを恐れていたのです。

また瀬戸内海のちょうど真ん中に位置する吉備は、海人の力も借り、

その地理的優勢を生かして出雲や北部九州と並ぶほどの勢力をもっていました。

しかし3世紀初頭、鉄器欠乏症にあえいでいたヤマトに変化が訪れました。

ヤマトには鉄は回さないと北部九州と密約をしていた、出雲と吉備が裏切って

ヤマトに鉄を回し始めたのでした。そうした変化のなか、

関門海峡を奪い取ろうとしたヤマトの神功皇后と仲哀天皇が拠点とした場所が、

山口県長府にある「忌宮神社」(いみのみや)でした。

また、北九州側にもヤマトの拠点がありました。それが香椎宮(かしい)です。

その二つの宮にはいつか行ってみたなと思いますが、それは置いておて

話を進めます。

北部九州を裏切って、ヤマト建国の中心となった瀬戸内海勢力の吉備だったのですが、

日本書記には一切、その実態を残していないのです!?

つまりヤマトは吉備を闇に葬ってしまったのです。

そして5世紀後半には、栄光の吉備の繁栄は

突然に終焉するのでした。

また別の角度からもそのことを明らかにしています。それは古墳の形です。

前方後円墳の発祥と言われているのは纏向遺跡(まきむく)です。

3世紀の纏向以前に前方後円墳はどこにも見つかっていません。

それは朝鮮にも中国にもです。

前方後円墳ではない形の遺跡は西日本各地に見つかっています。

そのことは何を意味するのか?

3世紀初頭のヤマトは大きな勢力ではなく、

各地の豪族の合議制による国だったのではないかとこの本では推測しています。

つまりその各地の埋葬方式を一定の統一感を持って

中央集権を計るという意味からも複合系である、

前方後円墳でヤマトの埋葬方式としたのです。

そのヤマトの前方後円墳に匹敵する古墳が発見された吉備が

なぜ?衰退の一途を辿ったのかですが、

それには当時、合議制を持って国を治めていたヤマトが

雄略天皇の登場によって変わっていったということです。

国内の政治だけではなく、海外との折衝においても、よりスピーディーな

意思決定が必要でした。この雄略天皇の頃に急速に力をもっていったのが、

東国の存在でした。前方後円墳の数と大きさを比べても、西日本が次第に

縮小化していくのに対し、東国は伸びていったのでした。その東国の後ろ盾も

あって、雄略は力の強い天皇として君臨していったのです。

そして、

旧態依然とした勢力であった吉備は衰退へと追い込まれたのでした。




なにか、こうした長文になると自分の文章力のなさに自己嫌悪となりますが、

この本を読み、さらに深く古代史について知りたくなったオトシンでした。。。


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あっ! 物部氏のことについて書いていない。○| ̄|_

また取り上げてみたいと思います・・・











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峠桜

昨日の休みは久しぶりの降水確率0%! 路面状態もドライ!

ほとんど乗れていなかったエモンダに跨り、江田島へライドしてきました。

江田島ライドの定番とも言える「しびれ峠」にアタック。

頂上では峠桜が散り始めくらいの様子で、お花見客の方がたくさんおられました。

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今年の桜も私的終了です。 ごちそう様でした~(* ´ ▽ ` *)

Dst・・・79.10   Av・・・17.5   TREK EMONDA SL6


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傳福寺
桜の季節はこんなにも雨が多かったのだろうか?

遠慮がちではあるが久しぶりに日差しが戻った広島。

弱きなお天道様を両手でぐっと引っ張って胸に収め

私はポタリングに出発した。

広島市西区福島病院横の桜の木は今年も見事に咲いている。

昨年もこの木をバックに一枚撮影したことは記憶にある。

こうして同じ場所で同じように花を眺めていると、

季節に句読点を打っているかのように思う。

さて・・・

いつものコースでホームグランドの平和公園に着いた。

前回シラスで来た時は7~8分咲きだったが、今日は

もう満開を過ぎ、花を散らし緑も多くなっていた。

次の季節へのバトンを渡すように淡いピンクの栞は

地面を染める。

腰掛けたベンチで通りゆく人々を眺めていると

ここは国際色豊かだなといつも感じる。

インド系だろうか? 小学校6年生くらいの女の子とさらに小さな男の子が

両親の掛け声で、とても! とてもキュートな笑顔をカメラに向けている。

微笑ましいにもほどがあるぞ! と日本語の使い方を誤ってしまう。

午前10時を過ぎた時、私はまだ今日の目的地を決めかねていた。

文庫地図を取り出して、なにげなくペラペラとやる。

市内中心部に「傳福寺」というお寺が目に留まった。

夕方の仕事まで時間もあるので今日はそこへ行ってみることにしたのだった。




昼飯はいつも行く安芸郡海田にあるインド料理のお店、「TAJ」 さん。

店内に入ると初めて見る店員さんが・・・

私が座りたかった席とは違う場所に通された。

ちょっとしたことでムッとしてしまうのだから、客というのは

わがままと言えばわがままだなと振り返る。

私自身、接客業なので逆の事をやっていることがあるということか・・・

まぁーとにもかくも、ここの「ポークカレー」は秀逸だ。




食後、街中を流して目的のお寺の前に着いた。

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傳福寺(でんぷくじ)は材木町(現在、平和記念公園内にある広島国際会議場周辺)に所在していたが
原爆投下により壊滅。昭和26年に都市計画で現在地に移転した。
開創年月は不詳だが、広島市重要有形文化財に指定されている本尊仏は慶長19年の造像で、
その頃の開創と思われる。
開山は十岫宗智大和尚、開基は育翁養公座元だそうだ。

街中のお寺らしくコンクリート造りの本堂。そしてその前には

あまり見ない「仏舎利塔」がスックと建っていた。

仏舎利塔とは? 釈迦の遺骨を納めた塔のことだ。

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この仏舎利塔は、2004年2月29日に世界平和を祈念して被爆地広島に

バンコク様式で建立されたもので、タイ王国最高位の高僧が自ら本場の

仏舎利塔から御分骨されてここに納められている。

「ナモータッサー  バカワットー  アラハトー  サンマー  サンブッタッサー!!」

と三回唱えて拝むそうだ。

今日はそうは唱えず、静かにお参りさせていただいた。



曹洞宗のお寺なので、本堂では座禅会とかあるのかもしれない。




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Dst・・・31.18  Av・・・15.2  TREK8・5DS


























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